岩と雪とそれがし

山についての思索を綴ります。

バイブル

日本人は何を想う。

正月には神社に詣り、亡くなった者には寺でお経を唱え、12月にはキリストの誕生を祝う。

 

夏目漱石の"こころ"と太宰治の"人間失格"はそれぞれ日本で最も売れた小説の一つとして扱われている。僕は"こころ"の一部を高校の授業で知りすぐに小説を買った。"人間失格"は社会人になった頃に読んだ。非常に抽象的な話になるが、この二つは「信じるものの欠如」という点において共通しているように思う。単なる歴史的な名著ではなく現代において売れ続けているのはこの時代をかたちづくる人々の内面がそこに集約されているからではないだろうか。

 

多様性を求めるあらゆる先端。日本という島国が持つ閉鎖的価値観。社会規範の矛盾。偽善欺瞞偽りの人格。

 

俳優の三浦春馬が亡くなった。彼が何を想っていたのかは知らないし、必要以上に迫ることはすなわち彼に二度目の死を与えるということにもなるだろう。ひとつ言えることは、人間社会に対して絶望していたということだ...

 

「Because it is there」「そこに山があるから」

この言葉は登山について知らない人間にも比較的認知された言葉である。これを言ったのはイギリスの登山家ジョージ・マロリーだ。マロリーは1924年に三度目のエヴェレストに向かい北東稜で行方不明になった。

この言葉「it」を日本語訳では「山」と翻訳しているのだが、識者によればマロリーの真意に沿った意訳を行うと「そこに対象があるからだ」という意味になるらしい。

作家の丸山直樹氏によるとその対象「it」に「善なるもの」という言葉をあてはめるとエヴェレストに消えたマロリー、ひいてはアルパインクライマーという生き方を体現する者達の「なぜ登るのか」が見えてくるという。

なぜ登るのか。

そこに善なるものがあるからだ。

すなわち山登りとは「人間が本来もつ、善性への回帰である」と。

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ヒマラヤが神々の座と呼ばれ、日本でもかつて山岳信仰が盛んだったように、人間はそもそも山を「人知を超えた何かがある」存在だととらえてきた。だが近代アルピニズムの登場により、「山は征服するもの」「挑むもの」といった考え方が定着し、人間は、山を尊び、自然をあがめる謙虚さを失っていった。

山はそもそも、そこに存在すること自体が、人間にとっては「善」なのではなかろうか。そして山登りとは、人間が古来抱き続けてきた山や自然に対する謙虚さを、みずからに思い出させる「帰依」の具体化なのではなかろうか。

ソロ 単独登攀者山野井泰史 丸山直樹著 第十章より

 

これに似た概念でポーランドの登山家ヴォイテク・カルティカは登山のもつ肉体的、精神的成長をもたらす性質を、中国の老子が筆頭となり説いた思想「道 tao」になぞらえ「山の道」と呼んだ。

ヴォイテク・クルティカにとって、登山はスポーツというより宗教的な行為である。人格を試し、完成するための手段であり、人間の感情の極限を-凝縮された短い時間内に体験し、それによって人生の本質的な真理を垣間見ることができる方法なのである。

ビヨンド・リスク ニコラス・オコネル著より

 

今を生きる日本の若者で菊と刀アイデンティティとするものはいったいどれだけいるだろうか...いずれにせよこの情報で溢れた時代に盲目的な人生を送るのは難しいように思う。

アルピニズムは生きることに夢中にさせてくれる。それはまったくのアクシデントによる死を求めているわけではない。神秘を求めて山へ向かい優れた洞察に目覚めて帰ってくる。この充実は何事にも変えがたいものだ。僕はこれこそがいつの世でも絶対的に正しいただひとつの事柄であると思う。そして何度も山へ向かう。

それともう一つ。難しいことは抜きにしてクライミングが楽しいのだ。

完結された青春 中嶋正宏遺稿集

7/13

死んだ時のために。

僕の考えは、このような日記に似た形式で書き留めているが、全てではない。十分とはいえないまでも、僕を理解するうえにおいて参考になると思う。これらの文章は、他人に読ませるものではないので、興味はわかないかもしれないが、書いてあることの意味を考えてみて欲しい。そこには稚拙ながらも得るところの大きいものがあると思う。

小学校のそばの上竹整骨院の先生に、僕が死んだと伝えて欲しい。もちろん僕が本当に死んだ場合に限る。

「気をつけなさいよ」母親が僕に言うおきまりの文句だ。切実ではあるが貧弱な言葉だと思う。山に行く息子を心配する気持ちはわかるが、あの言葉には、何の具体性もなく、説得力に欠ける。僕の行動を理解できないから当然のことなのだが、同時にあの言葉の裏にある母親の気持ちを"説得力がない"として考えもしなかった、僕の心の貧弱さも感じる。